杉浦茂について

ナンセンスと下町の温かみを共存させた天才

ユーモアにあふれた忍術・冒険・アクション漫画で戦前戦後の児童漫画界を牽引し、
後年は大人向けのシュールギャグの新境地も切り開くなど、
唯一無二ともいえる独自性で存在感を示し続けた杉浦茂。
自由でハチャメチャ、でも根底に感じられるのは下町の懐かしさ。
そんな作品の数々に影響されたクリエイターたちは数知れず。
ナンセンスなギャグ漫画の巨匠、その作家人生とは。

 

『のらくろ』田河水泡の弟子として
漫画家人生をスタート

1932年、『のらくろ』の作者田河水泡に入門した杉浦茂。同門には『あんみつ姫』の倉金章介、『サザエさん』の長谷川町子がいた。同年「東京朝日新聞」に掲載した一コマ漫画『どうも近ごろ物騒でいけねえ』でデビュー。「知識や興味、なにもなかった」と後に本人が語る漫画家の道を歩き始める。駆け出しの頃はネタの引き出しが少なく、別の雑誌に同じネタを使い回したこともあった。それでも田河のもとで懸命に漫画を学び、『少女倶楽部』『少年倶楽部』『新少年』などの雑誌掲載や新聞連載、単行本など、旺盛な執筆量をこなしている。

戦後の漫画黎明期と共に迎えた
杉浦茂の超多忙な「黄金期」

戦後間もない1946年、単行本『冒険ベンちゃん』の描き下ろしで執筆活動を再開。以後、児童向け雑誌に『アップルジャム君』『弾丸トミー』など、少年ヒーローが活躍する子ども向けのおもしろ漫画を多数連載した。中でも『猿飛佐助』や『ドロンちび丸』などの忍術漫画が当時の子どもたちの間で大人気となり、そのヒットをきっかけに仕事が大幅に増加。杉浦茂の黄金期を迎える。特に、代表作となるさまざまな長編漫画が生み出された1953年から1958年は「奇跡の5年間」とも表されている。

磨き続けるシュール&ナンセンス。
80歳を超えてもなおペンをはなさず

しかし、1960年代に入りストーリー漫画が主流になると、杉浦漫画の人気に陰りが見えはじめる。仕事が減り、出版社に自ら作品を売り込みに行くなど苦しい時期もあった。この頃を境に、作風は児童向けから青年向けへと移行。シュルレアリスティックな表現も取り入れるようになる。1980年以降、サブカルチャーの文脈で杉浦のナンセンスでシュールな作風が再評価されると、作品は再び脚光を浴び、作品集やイラスト、CMキャラクターなどの仕事が続々と舞い込むようになった。漫画への情熱は80歳を超えてもなお衰えることがなく、『2901年宇宙の旅』を描き下ろした88歳まで執筆活動は続いた。

杉 浦 茂 略 歴

1908(明治41)年 東京本郷区湯島に医師の三男として生まれる。洋画を志し、第11回帝展(日展の前身)への入選も果たすが、生活上の理由で漫画家への転身を決意。1932年、知人の紹介で 『のらくろ』の作者田河水泡の門下となり、同年「東京朝日新聞」紙上において『どうも近ごろ物騒でいけねぇ』でデビュ-。以降、戦前は教育的ユーモア漫画を主に描き、戦後1946年〜1966年にかけて冒険漫画を中心に当時の子どもたちを夢中にさた。1980年代以降は、イラストやCMキャラクターなどさまざまな分野で活躍。2000年4月23日腹膜炎により死去。享年92歳。

 
仕事場にて(杉浦勉氏提供)